尖峰嶺地域

       

日本東京の防衛研究所図書館に、旧日本軍が海南島でおこなった侵略犯罪にかんする文書が残されている。そのなかに、日本海軍海南警備府横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の「戦闘詳報」がふくまれている。  尖峰嶺地域は、抗日反日部隊の根拠地であり活動地域であった。
 1945年6月5日に「横鎮四特戦闘詳報第八号(横四特陸機密第26号ノ8)」として出された「感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」には、
 

 
「共産党挺身大隊長張応垣ハ約180名ノ部下ヲ擁シ田頭嶺山麓一帯ヲ共産化シ高園村(嶺頭33度、約8・5粁)附近一帯ニ蟠踞シ……嶺頭ヨリ高園村ニ通ズル討伐道路側ノ部落ハ殆ド共産化サレ  高園村附近一帯ノ治安ハ悪化シ嶺頭分遣隊ノ如キハ討伐ノ途中度々射撃ヲ受ケタルコトアリ……」

と書かれている。

 
 

 

東方市板橋鎮(旧感恩県)高園村

      

   

弓を引く周亜華さん(1921年生)

   
 
周亜華さん
 「日本軍は家を壊して、火をつけた。にわとりや豚や牛を奪い、女性を強姦した。村びとを道路工事に行かせた。行きたくないといったら、殴った。石碌鉱山に送られた人もいた。病気になって仕事ができなくなったら、焼かれた。
 共産党の張應煥が、よくこの村に来て泊まった。もし共産党の組織がなければどうなるか、といって、共産党に入るように誘った。仕事を積極的にする人、秘密を守れる人は、地下組織に入ることができるといった。張應煥は、30歳代だった。
 わたしが志願して地下党員になったのは、18歳ころ。
 嶺頭で日本軍と戦ったことがあった。火薬銃で。火薬銃は先祖から伝わったもの。村の人はほとんど持っていた。火縄銃がなかったら、弓で戦った。小さい弓、太い弓。太いのは、腕くらいの太さ。弓は、いのししを捕まえたりするのにみんな持っていた。
 わたしが共産党に入ったことは、妻も子ども知らなかった。共産党に加入したら、党費を納めなくてはいけない。金がなくて、マッチを党費として納めた。  張應煥は、非常に勇気がある人だった。戦場では勇ましかったが、部下にはやさしかった」。
 

右 林秋華さん(1916年生)

林秋華さん
 「1943年に、瓊崖従隊に入った。妻は村の民兵だった。遊撃隊の前は、紅軍にいた。
 日本軍が来たとき、女が2人、男が4人殺された。家も燃やされた。この村は50戸だった。羊、牛、豚、とりは全部奪われた。
 みんな山に逃げた。子どもを背負って逃げた。日本軍が引き上げたら、また村に戻ってきた。
 日本軍とも国民党とも戦った。攻撃されたから戦ったのだ。感城での戦闘がいちばん激しかった。わたしたちは、300人。こっちが勝った。日本軍は30人。日本軍から機関銃を奪った」。
嶺頭駅(2006年3月撮影)
 日本占領期には駅の南側に分遣隊が駐屯していた。
   

感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」の付図

     
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